2009年5月2日土曜日

追悼



ー余談ー



 マリオが死んだ日、引っ越しの手伝いに来ていた次男が、マリオの死に顔をしみじみと見て慈しむように頭をなでて遺体に線香をあげてから、仙台へ出発した。


 仙台に到着して、電話を受けた母親に言った。


高速道路を時速130キロで飛ばしながらボロボロと涙が止まらなかったという。


 一見、無愛想な関係であったが、小学生時代から大学院生になるまでの13年間、存在感の強いきずなに結ばれていたのだろう。




2009年5月1日金曜日

追悼



 マリオが居なくなってからは夫婦二人の生活になった。

 常々、「二人と一匹で盛岡暮らしだな」と言ったが、その前提が崩れてしまった。

 夫婦二人(亀は健在)の生活はまことに単調である。

 とりあえず、自宅の書斎を事務所に始めたSOHO型のビジネスで、すぐに仕事があるわけでない。

 今までのサラリーマン生活と異なり、二四時間夫婦一緒に居ると些細なことで時々衝突する。

 どちらにも緩衝機能がないから、会話も途絶える。

 そんな時、「マリオが居てくれたらな」と思う。妻も同じである。

 さらに家をリフォームする時に外装から、内装の床、壁、天井を全てリニュアルしたがドアだけはマリオ専用のくぐり戸があるため再利用した。

使い主の居ない小さな戸が、余計不在感を煽っている。

 地方の設計会社の技術顧問がまともな仕事で、本来のデザイン事務所は稼働していない。
 なんとなく気合いが入らない。

 事務所を法人化して、技術士と一級建築士の事務所登録をしなければならないのだが、緊迫感が湧いてこない。

 盛岡へ戻って、生涯現役スタイルで頑張ろうと思った意欲が薄くなっている。

 これをペットロス症候群と言うのかもしれないが、空虚感が先にあってその実感はない。

 マリオの一回忌までには形ばかりでもステイタスを整えたいと考える。


それが天国のマリオの供養になるだろうと、日々の無気力を慰めている。



              ボクもそういう時ってあったな!








2009年4月30日木曜日

追悼



 我が家の場合はペットを飼う動機として犬でも猫でも良かった。

 国鉄改革という激動の中で一家をまとめるための手段として、マリオを飼った。

 子供たちが思春期から独り立ちするまでの十三年間、マリオは家族のよりどころとして生きてくれた。

 マリオは転校で色んなハンディを背負った子供達に、心の安らぎを与えてくれた。親は口やかましく色々要求するが、マリオは子供達に何も言わないで側にいた。

 子供達は外部で不愉快なことがあってもマリオに命令したり、じゃれたり、添い寝をしたりした。

そうすることにより心の安心を取り戻し、マリオに真の愛情を感じていた。マリオは子供達の物を言わない親友であり、誇り高い子育て猫だった。

 父親が「鉄道民営化」という改革を駆け抜けるために、生活の変革を共にした三人の子供たちと妻に「愛と勇気」を与えてくれた。

 さらに、生あるものへの命の愛しさも教えてくれた。一緒に過ごした情緒豊かな時間や折々に見せたしぐさの記憶を数え切れないほど残した。与えてもらったぬくもりの大きさは計り知れない。

 そのマリオが、娘の嫁入りや次男の大学院進学の一週間後、子供たちの新たな旅立ちを確かめたかのように、故郷の盛岡に戻った翌日に天国に旅立った。

 子供達は思春期の難しい時期を、父親の都合で転校し挫折しながらも屈折することもなく、いわば平凡であるけれども他人に迷惑をかけないで、成人してくれた。

 自慢するところは何もないが、親としては満足である。

 国鉄からJRへ、仕事に没頭して充分(家族を)フォローできなかった。

 ネコ派的な子供まかせ(マリオまかせ?)の子育てであった。

 気持ちはイヌ派なのであるが、こちらの方は新生の鉄道会社に向いてしまった。
 
人間と同じ生活のペットは、人間と同じ病いが多いという。糖尿病、虫歯等、生活習慣病そのものである。マリオも腎臓の不調をかこっていたが、通院しながらも日常生活で飼い主に手を患わせる事も無かった。

 老年になって動作が緩慢になるとか食が細いなどの若干の老化現象はあったが、いざと言う時の俊敏性は残っていた。

 犬や猫は最初の一年が20才に該当し、後の一年を4才にカウントする。マリオの年令は人間で言うと約70才にあたる。

 獣医の「まだ5年は生きますよ」という言葉を信じて飼い主として油断があったかもしれない。

 人間のように老化による介護もなしに、1時間ぐらい苦しんだだけで、末っ子である次男の膝のうえで息を引き取った。

 家族に迷惑を掛ける事もなく、穏やかな死だった。

 愛しいものの死は、残されたものに存在を厳しく問う。

 家族としては、あまりにも突然の別れに戸惑いを隠せない。JRを退職し第二の関連会社も辞した直後である。

 火葬の朝、ささやかなデザイン事務所の看板が立てられたが、マリオの旅立ちと決別を象徴しているようだった。



               晩年のマリオ





2009年4月29日水曜日

追悼



 マリオの死は家族にとって象徴的だった。


 八年振りに戻った家の庭は荒れ放題である 家を建てると同時に植えた桜が根元から枯れていた。


 庭のシンボルのような木だった。 普源桜という樹種で、満開になると大粒の八重の花がはち切られんばかりに咲いた。


 初春を彩る吉野桜と違い、一ケ月以上も精一杯咲き続ける。


 前年の秋までは辛うじて小さな芽を残していたが、引っ越し後に確かめたらマリオの死と呼応したかのように樹全体が枯れていた。


 マリオが死んで一ケ月後に八幡神社にお参りに行った。自宅のリフォーム報告と各地にいる子供達を含めて新生活の祈願である。


 境内で恒例の植木市が開かれていた。


 参詣の後、夫婦でぶらぶらと見て回った。


 枯れた桜と同じ木の苗を見つけた。小さな木であったが、淡いピンクの大粒の花を十数個つけていた。


 樹高の割に高価であったが、ためらわずに買った。


 木登りの好きだったマリオがよく登った普源桜である。


 ネムの木も買った。桜はマリオが幼くて元気だった頃の思い出だ。 ネムの木は妻が求めたが、追悼の意味があるのかもしれない。


             マリオの好きだった普源桜


2009年4月28日火曜日

追悼



ー白い物はマリオ?ー

 一晩、マリオの骨を祭壇にあげて、翌日埋葬に出かけた。

 マリオを埋葬して夫婦で帰る道すがら、野良風の猫にあった。赤い虎模様である。チッチッと舌を鳴らすと逃げないで見上げている。

 妻は「アッ、猫ちゃんだ」と言って近づいて頭をなでてやる。

 夫婦で立ち止まっていたが、そこに居るのはマリオではない。

 妻は「元気でね」と言って、立ち去った。

 振り返ると、猫はキョトンとした表情で我々を見ていた。

 家に戻り、中途半端になっている引っ越しの片付けを始めた。全く気が乗らない。

 マリオの突然死騒動で、なんとなく片付いているのは仏壇をセットした一階の和室のみで、他の部屋は段ボール箱の山である。

 盛岡に引っ越してから三日目であるが、今までの転勤のように翌日から出勤というわけでもなく、急ぐ必要もないためにゆっくり片付けることにした。

 気の乗らないまま、段ボールを持って運ぶと物陰にチラッと白い物が見える。

 瞬間的に「アッ、マリオ!」と錯覚してしまう。


 喪失感より不在感が強いのだろうか。死んだと思っていてもついそう感じてしまう。

 このことは数か月続いた。

 妻も同様で、「白いのを見ると、アレッ、マリちゃん、と思うよね」と言った。



                   段ボールの探し物


2009年4月26日日曜日

追悼




ー火葬ー

 ハワイへの新婚旅行から帰った翌日(マリオの死んだ翌日でもある)、朝一番の新幹線で娘が死んだマリオに逢いにきた。

 玄関を入るやいなや祭壇のある一階の和室に入った。

 飾ってある写真の前で、大粒の涙をポロリとこぼした。

 「マリちゃん」と言ったきり絶句した。

 数秒して、遺体に掛けてある白い布をとって、また呼んだ。

 「マリちゃん」

 薄く目を閉じて静かに寝ているようなマリオは何もこたえない。

 娘は夫が「マリオの好きな」と言って、持たせてくれたメロンを祭壇にあげると、マリオとの思い出が蘇ってきた。

 新幹線の車中もそうだったが、祭壇で寝ているマリオとの十三年間の想い出が走馬灯のように浮かんで来る。

 ペット店で、目に入れても痛くないように可愛げだった。

 ヨチヨチと無邪気にじゃれていた幼い頃。

 二週間も家出をし、心配で受験勉強も手につかず眠れなかった日々。

 高校受験、大学受験と悩んでいる時、無心に横に座っていた。

 恋愛時代、帰宅が遅くなっても必ず起きて待っていた。

 結婚式の前日、別れの朝に意味がわからないながらも、寂しそうなまなざしだった。

 そのマリオが結婚式から一週間後に天国に召されるとは想像もしなかった。

 その日の午後、獣医院から紹介された動物霊園の火葬場で、マリオは小さな小さな骨になった。

 火葬の煙は、細く長い一筋の白い糸のように、どんよりとした曇り空にたなびいていた。

 一時間半くらい霊園の待合室で待ってから骨を拾いに行った。

 まだ熱い鉄板上の一塊の骨を見て、娘がつぶやいた。

 「マリちゃん、こんなに小さくなって…」 骨を拾う時、娘は再びマリオが元気だった頃を思い出して涙が出た。

 涙は熱い鉄板の上に静かに落ちた。[

 涙がマリオの骨に吸い込まれていた。最后の一ミリ程度の骨も惜しんで拾った。

 帰りの車で、マリオの骨の入った箱を抱えて、娘は無言だった。

 家に帰って娘が言った。

 「マリちゃん、帰って来たよ」

 ママさんが後ろで涙ぐんだ。

 祭壇にお骨をあげて、一週間前の結婚式や旅行の話の後に、マリオの骨の処理について話をした。

 ママさんと娘の意見は違っていたが、娘の「だって、フォア・ザ・ファミリィでしょう」の一言で決まった。

 娘はトンボ帰りで、その日の最終の新幹線で東京に戻っていった。

 新幹線に乗り込む時、「お父さんもお母さんもマリオの部屋で寝てあげてね」と言った。

                  マリオのゆりかご