2009年3月7日土曜日

壮年期




 正月の松の内があけて、お屠蘇気分も薄れつつあるときに未曾有の大地震が発生した。火曜の早朝である。

 マリオは地震の起こる直前に、地面が低く唸るような微かな振動を感じて起きていた。家族は皆寝静まっていて不安で堪らなかった。 パパさんは月曜に仙台に出張で翌日の朝一番の新幹線で単身赴任先の東京に行くことになっていた。

 早いパパさんの朝食準備のため、ママさんが起きたのマリオはホッとした。

 珍しくママさんに朝の挨拶をした。

 「ニャーお」

 「あら、マリちゃんどうしたの、もう起きていたの」と声を掛けられた。

 普段は子供達と、びり争いで起きるマリオだったからママさんは意外だった。

 ママさんは朝起きると最初に居間のテレビのスイッチを入れる。スイッチを押してキッチンに向かおうとしたママさんの耳にアナウンサーの絶叫調の声が飛び込んだ。

 テレビの画面で顔が引きつったようにアナウンサーが絶叫している。

 ママさんはすぐパパさんを起こした

 前夜遅く帰宅してまだ眠いパパさんは「何だよ」と言いながら起きてきたが、テレビを見るなり顔色が変わった。

 呆然としてしばらく画面を見ていたが、パジャマを脱いで着替えだした。いつもはパジャマのままで朝食をとるパパさんだ。

 「おい、早くしろよ」と言いながら電気剃刀でひげを剃っている。

 パパさんを駅まで送る役目の娘も起きてきた。

 玄関でオーバーを着ながら、「来週は帰れないかもしれないな」と言って出かけた。

 ママさんも心配げに「気をつけてね」と言って送り出した。マリオも珍しくママさんと一緒に玄関までパパさんを見送りに行った。 東京に行ったパパさんは二、三日テレビ漬けだったらしい。凄まじい被災画面が次々と放映された。神戸という大都市が壊滅したような大災害だった。初期の報道では死亡者数が二千人弱だったが、時間が経つにつれどんどん増えている。

 パパさんは胸が痛くなるぐらい心配していた。関西には国鉄時代の友人が多くいて情報がとれずにイライラしていた。幸いにJRの情報網では、社員の死亡のニュースがないことが唯一の慰めだった。

 震災発生から五日目に、いてもたってもいられなかったパパさんは決断した。取りあえず現地の状況を調査しようと思い立った。土木技術陣はすでに第一陣が出発していた。

 構造設計のベテラン技術者と若手社員の三名で出かけた。

 出かける前夜の日曜日、東京駅近くのホテルに泊まり大阪までは朝一番の新幹線で行き、大阪からバスを乗り継いで神戸まで行った。

 震災の凄まじさはテレビの画面以上だった。パパさんは焼け焦げた被災現場を見て鳥肌が立った。折悪しく雪がちらついて被災地全体に追い討ちをかける寒さになった。
 鉄道施設の被災状況を中心に神戸の街を端から端まで歩いた。テレビで予備知識があったとは言え、技術者として打ちのめされるような状態だった。
 高速道路のドミノ状の倒壊に代表されるように構造物の被害は凄かったが、よく観察すると理論的に合っても無理な設計をしたものと施工不良だったものが被害を大きくしていた。自然の力を甘く見てはいけない。壊滅的だった芦屋の古い高級住宅は、開放的な間取りに加え、瓦葺きの屋根には十センチ以上の粘土が乗せて頭が重くなる工法が災いした。

 甘い技術に対する憤りを感じながら街を歩いていると、新開地の街角で喫茶店が営業していた。砂漠でオアシスに巡り合ったような感動だった。

 熱いコーヒーをすすりながら、ミニ調査団の三人の技術者は寡黙だった。

 炊き出しボランティアが所々にあって、被災者が大勢並んでいた。パパさん達も間違われて「どうぞ」と声をかけられたらしい。

 そんな被災した人達の中に犬もいて、パパさんはホッとしていた。公園はテントが無数にあって犬もつながれていて悲しそうな風情だった。人間の被災は同情してもし過ぎることはないが、ペットも被害者である。

 パパさんはマリオを飼っていることもあって、猫が見当たらないことを気にしていた。猫は家につくと言われているが、飼い主がいない倒壊した家のあたりで途方に暮れている猫を想像しながら、マリオを思い出していた。

 バスを乗りついて大阪に戻ったのは九時過ぎだった。神戸中を歩いてお腹がペコペコだったパパさん達は梅田の高架下の居酒屋で一杯飲んで暖を取った。十一時過ぎに京都の宿に向かった。大阪市内は震災の関係者で満室状態のため宿を取れなかった。

 その夜、京都は黒い空から雪がしんしんと降って、寂寞とした底冷えがした。

 地震発生から十日目に、JR西日本へ技術支援をすることになりパパさんが団長で震災のお見舞いがてら大阪に行った。相談の結果、三名の構造技術者を派遣することになったが、明石市にある被害の少なかった社宅に滞在しながら自炊をしながら列車で通うという状態で、パパさんが心配しながらの支援が約三ケ月続いた。パパさんが所属するJR東日本の社長は(支援に行く技術者は)「一番良いホテルに泊めてやれ」と言ったが、神戸市内とその周辺でホテルらしいホテルは一つも営業していなかった。
 
 

 災害とペットの関係はどうしても人命優先になるため、ペットは後回しになる。

 世の中が平和な時は、矢が刺さった鴨とか穴にはまった犬とか、凧糸がからんだ烏とかを必死に救出して人の心をほのぼのとさせる。しかし、災害になると人間優先は致し方ないところで、飼い主としても断腸の思いだ。

 犬と猫二頭飼っている知人宅の会話を聞いて、パパさんは感心していた。

 知人の娘「もし、地震があったらお母ちゃんは、マメ(中型犬であるが、子犬の頃「豆太郎」と命名された)の首輪を外してやってね、猫達はひとりで逃げられるからいいけど」

 知人のママさん「そうだね、マメは繋いだままでは下敷きになるからね」

 普段から、災害時にペットをどうするかを考えて飼うことは飼い主の基本的な責任であるが、得てしてなおざりになりがちになる。災害国日本のペット飼育の心得として必要なことかもしれない。

 その点マリオは恵まれている。クラクラと弱く揺れる震度二程度の地震でも、娘は「マリちゃん、マリちゃん」と言ってすぐ抱き上げる。

 マリオは家族より機敏に動けるから抱かれるとかえって危ないと考えているが、娘は自分より弱いものだと決めつけている。
 
 神戸の大地震の後日談であるが、パパさんが先年にドイツに出張して講演した「交通デザインフォーラム」をその年日本で開催する計画があった。 
 

 パパさんと一緒に出張した車両担当の部長が窓口になって「ワトフォード会議」の事務局と相談していたが、ジャパンの震災ニュースを見た英国の担当者から日本開催の見送りの連絡が入った。


 車両部長は「日本がつぶれたとでも思ったのかナァー」と言ったが、世界レベルのイベント開催を見送らせるだけの凄まじい震災の映像が世界中を駆け巡ったのだろうと、パパさんは考えていた。




2009年3月6日金曜日

壮年期

                 車は苦手なんだよ
ーTHE VOLVOー

最初に買ったサニーが二回目の車検を受けなければならない。娘は車検を受ける気はサラサラない。
 パパさんは「まだ乗れる」と頑張っている。

 娘はパパさんに憧れの新車を買って貰いたくて「あの手この手」で説得した。

 口説き文句は、「お父さんが国分町(仙台・東北一の飲食店街)で飲んだら何時でも迎えに行ってあげるよ」と言った。

 パパさんは「その手には乗らないよ、タクシーで充分、銀座なら話は別だがな」と素っ気ない。

 娘の決め手の台詞は、「マリオが盛岡に行く時、車酔いするのは(車が)小さいからよ」

 これにはパパさんもちょっと心が動いたらしいが、それでも「新幹線で行けば大丈夫だ」 娘は説得をあきらめて、自力で買うことにした。なけなしの貯金をはたいて、頭金にする計画でディラー(自動車販売店)のセールスマンと相談していた。

 単身赴任列車で東京から帰仙したパパさんが、寄り道をして飲んで帰ると、ママさんが起きていてテーブルの片隅に車のパンフレットがあった。

 「(娘が)買おうとしている車はこれか」と言って、しばらく眺めていたが、そのうち「寝よう、寝よう」と言って蒲団に潜り込んですぐ寝てしまった。

 翌朝は土曜日、パパさんも娘も休日である。

 朝食を済ませた後、「おい、車を見に行くか」とパパさんが言った。

 娘は何を今更、と思いながら「なんで?」と聞いた。

 「マー、いいから」と言って、ママさんと三人で出かけた。

 行った先は外車の販売代理店だった。娘は「ボルボじゃない!」とびっくり。ママさんは呆気に取られていた。お店のセールスマンの下にも置かない説明を受けながら、娘はパパさんの真意を計りかねていた。

 パパさん「これでいいんじゃないか」

 娘「エーッ!」

 ボルボの最新型で、その年Gマーク(グッドデザイン)の最優秀賞を受賞した車だった。パパさん「これをお願いしますよ、支払いはどうすればいいのかな」

 ママさんも只々、唖然としていた。

 帰りの喫茶店で、娘は「お父さん、本当にいいの」と聞いた。

 パパさんは「だって、お前は(車が狭くて)マリオがかわいそうだと言ったろう」と答えた。

 「ふーん」と言った娘は、マリオに感謝していた。

 これには訳があって、当時JR東日本はグループ企業の支援と全体の収入アップを目指して「バイ・ジェーアール」運動(JR社員はJRグループの店から買おうというキャンペーン)を展開していた。本社勤務のパパさんは、何らかの形で協力しなければと考えていた矢先に、車の買い替え問題が持ち上がった。グループ企業で新規の事業としてボルボのディラーをやっていて「どうせ(車を)買うならボルボ」と決めていたらしい。

 グッドデザイン賞も関係あった。ボルボのGマーク受賞と同時に、パパさんの手掛けた駅がグッドデザインの施設第一号に認定され表彰式に出席した時、ボルボの関係者と懇談したことも購入動機の大きな理由でもあった。

 言うまでもなく、マリオの存在が影響していたことも大きな理由だったかもしれない。

 ちなみに、パパさんは運転免許がない。

2009年3月3日火曜日

                パパさん、大丈夫かな?



 パパさんが又海外出張だという。家に帰っても、横文字がプリントされたペーパーを片手に何やらぶつぶつ読んでいる。

 出張先はフランス、ドイツ、イタリアの三か国なそうだが、主な目的はドイツのシュツットガルト市で開催されるワトフォード会議主催の交通デザインフォーラムで講演することらしい。

 鉄道車両と鉄道施設(主に駅)と運行システム等のデザインを競うフォーラムで、パパさんの講演は「山形新幹線システムと駅のデザイン」と題して二〇分のイングリッシュレクチャーをする。

 若手社員二人と成田から出発した。最初の訪問先はJRのパリ事務所である。パパさんの知り合いがいて、その夜はパリ事務所の社員全員とシャンゼリゼの裏通りにある日本料理屋で交歓会になった。積もる話しに深夜一時過ぎまで飲んでしまった。

 その後、夜のライトアップを見に行こうということになり、パリ市内を深夜のドライブに出かけた。

 凱旋門からシャンゼリゼ通り、コンコルド広場、エッフェル塔等一時間ほどのドライブコースをパパさんの知り合いが、酩酊運転で案内してくれた。パパさんは後で同行した二人に「びっくりしたよナー、日本じゃ一発だぞ(お巡りさんに捕まる)」と言った。

 ドイツのシュツットガルトのデザインセンターで講演会が無事開かれたが、前日パパさんは大変だったらしい。公式行事なので自宅から紺のスーツを持参したが、ハンガーに吊るして置こうと取り出したら白い毛が一面についていた。スーツケースに入れる時、ママさんがガムテープで取ったのだが、一緒に入れたセーターから伝染したものだ。

 一時間ほど指で毛を取ったが、本当に大変だったらしい。

 翌日、フォーラムで何とか講演を終えた後、レセプションパーティがメルスデスベンツの本社ショールームで行われた。ベンツの展示室を一回り見学した後にメインホールに世界各国からの参加者が一同に会した。

 ここがパパさんの最大目的の場所であった。JRで山形新幹線の駅舎群を同じワトフォード会議のブルネル賞(交通関係で世界レベルのデザイン賞)に応募していた。パーティにはその審査員も参加するという情報だったからアピールするには、絶好の機会と考えた。

 しかし、よくよく話を聞くとブルネル賞はアメリカで審査されていたらしくて、パパさんは目の前が暗くなった。忙しいのに何のために来たんだ、と後悔したが後の祭りだった。

 気を取り直して、日本の自動車メーカーの駐在員やドイツ人の新聞記者と片言英語で懇談した。話は半分も判らなかったが、会話はお酒も手伝ってくれた。

 後でパパさんの講演した駅がフランクフルトの新聞社の新聞に掲載された。

 帰国したパパさんは日本の国際的な後進性を嘆いていた。なぜなら、このフォーラムでは十二人の講演者がいて、その内四人が日本人だった。


 会場には同時通訳が英・独・仏・利の四カ国準備されていたが、日本語の通訳はなかった。
 「日本語(同時通訳)があれば、俺の流暢な東北ジャパニーズで堂々と講演できたのに」と言っていた。

 もっとも、日本からフォーラムでの講演者は、海外経験の豊富な日本でトップクラスのデザイナー二人と海外勤務の経験のあるJRの車両担当の部長と施設担当のパパさんの四人だったから、日本語の同時通訳が必要なのはパパさん一人だけだった。

 猫語は万国共通であるから、マリオは「人間って不便だな」と考えていた。