2009年3月25日水曜日

壮年期



ー出向ー

 パパさんの年来の夢は、独立だった。高校を卒業して国家公務員になりながら、その後二年も職業を転々として、独立の可能性がある建築を勉強したいという気持ちは捨て切れなかったらしい。


 国鉄に入社してからも、その夢の転機は二度あった。


 一度目は国家ライセンスの一級建築士を取った時だ。憧れの国鉄に入社して、三年目である。大卒のノンキャリアで入社したパパさんは、官僚的な人事システムに失望していた。その時はパパさんのママさんのお祖母ちゃんが病気になったため、あきらめた。


 二度目は国鉄が民営化される一年前のことである。民営化の説明をしながら虚しさを感じていたパパさんは、部下達の雇用に対する不安を痛切に受け止めていた。


 部下の一人はパパさんが「会社を作って皆を受け入れればいい」とまで言った。当時の昭和六〇年前後は不況期で新事業どころではなかったが、真剣に悩んだらしい。


 色々なことがあって、JRに落ちついたのである。惨々たる経営内容の国鉄から転じた民営鉄道会社が好転するとは予想もしなかったが、トップから現場までを巻き込んだ意識改革を重ねた経営努力の結果、初年度で数百億の利益が出た。驚異であった。


 その後JRで、仙台に六年、東京の本社に三年と勤務したパパさんは五四才になった。後一年弱を残し、後進に道を譲る名目で若年退職もしくは出向の選択に迫られた。


 パパさんは長年の夢であったデザイン事務所開設のチャンスと思ったが、周囲の状況が許さなかったらしい。


 パパさんは、相当頑固な一面があって、自分の意思を通すということでは人後に落ちないところがあるが、使命感みたいなものに弱かった。


 本社のミドルを勤めた立場で、自分の希望を通せなかった。退職後を含めて、グループ企業でしかるべき年数を勤めるという暗黙の人事慣行があり、パパさんの希望は先例のないことだった。国鉄改革から十年目を迎え、JRも経営安定期に入りつつある時期に、波紋を起こす道を避けて、出向の道を選んだ。


 そして、推薦されたグループ会社はパパさんが最も敬遠していたゼネコン(建設会社)であった。


 ゼネコンは国鉄・JRを通じて建設の職場にいた関係でおつきあいも多く、ある意味では仕事のパートナーであったが、一般の会社に比べゼネコンという企業の経営体質に常に疑問を持っていた。


 技術的には世界をリードするレベルにあるにも関わらず、コストを始めとする不透明さは何とも不可解であった。


 本来は男の職場なのであるが、陰にこもったゼネコンの経営スタイルがパパさんの遺棄する最大の理由だった。

               パパさん、大丈夫ですか!

0 件のコメント: