2008年9月23日火曜日

青年時代

ー全国大会ー

 日本に学会と名のつく団体が幾つあるか判らないが、パパさんも幾つかの学会に所属している。その中で最大規模のものは日本建築学会である。会員数は3万数千人で日本でもトップクラスのメジャー学会でもある。

 パパさんはJRになった年から、仙台にある建築学会支部の役員になった。忙しい仕事の合間を縫って、月に1回の常議員会、担当部会の事業執行やら結構大変だった。

 学会活動は学者先生の実績づくりみたいなところで、パパさんがせっせと真面目にしなくても良かった。しかし、パパさんはせっせとやった。これには訳があって、役員会の最初の顔合わせを兼ねた新年会で、同じ役員の大学教授に(国鉄出身の役員は)「国鉄時代は名前ばかりでほとんど出席してくれませんでした」と言われた。

 これにはパパさんも恐縮するやら、役員だった国鉄の先輩を恨むやらで、汚名返上の決心をしたのである。

 支部役員は好評のうちに2年の任期満了をむかえた。

 翌年に学会の全国大会が仙台で開催されることに決定していたため、支部長先生から全国大会お手伝いの要請がかかった。パパさんは無役で手伝うのは立場が弱いという理由で学会本部の役員に立候補して当選した。そして全国大会実行委員会の事業部会を手伝うことになった。

 JRは発足と同時に旅行業の登録をしており、学会の全国大会は絶好のビジネスチャンスであった。パパさんは新設された旅行業の担当部所を督励して、社業と学会活動の二足の草鞋をはいた。

全国から数千人が集まるため、切符の手配、ホテルの予約とてんやわんやだった。ホテルは市内でまかないきれず、近傍の温泉・観光地の宿を手配したが、それでも足りず隣県のホテルまではみ出した。

 全国大会の初日、恒例のレセプションパーティが開催される。それの実行責任者にパパさんがなった。

パパさんは自分が建設したJRのホテルを会場に選定して、パーティの骨格を作った。参考にしたのが、前年広島で開催された大会だった。

 広島では、会場の大学食堂でパーティがあり、あまり華やかな印象は受けなかった。参加者も300人程度だった。

 パーティの企画で一番大切なことは、出席者数の予測だ。前年の例から、会場の立地条件を考慮して500人の出席を見込んだ。立食パーティという条件を加味して、ホテルには参加予定者数の0.7掛けで料理を頼んだ。

 ここまでは非常に堅実なパーティプランだったが、当日ハプニングが生じた。

 会場が駅に隣接して都心という好条件を反映して、パーティ参加者は予想を遥かに上回って、700人強になったのである。受付の指揮を取っていたパパさんもびっくりした。準備した料理の2倍以上の参加者だ。懸命に受付をさばきながら宴会場をのぞくと、熱気むんむんの状態だった。

 会費の整理を終えたパパさんが、パーティに参加した時、料理はほとんど無くなっていた。パーティは2時間で終わり、参加者達は談笑しながら三々五々に街へ散った。

 会場に残された無数の食器はことごとくきれいになっていた。ホテルのパーティというと料理の半分以上が残っていつもは勿体ない思いをしていたパパさんだが、(料理が足りなかったのではと)ちょっぴり罪悪感にとらわれた。

 全国大会は3日間のスケジュールを全てこなして、無事終了した。週末、くたびれたパパさんはマリオと一緒に1日中寝転んでいた。

                        パパちゃん、疲れたね


 大会後の役員慰労を兼ねた会合で、パパさんは実行委員長にパーティの不手際を謝った。

 委員長先生からは「いえいえ、(料理が無駄にならなくて)最近にない気持ちの良いパーティでした」と逆に感謝されたそうだ。

 

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