パパさんの実家は岩手県の沿岸地方である。
昔、陸奥の国と言われた時代に海産取引が盛んだった地方で、今でも黒潮と親潮のぶつかり合う魚群の豊富な三陸海岸の中心地だ。
港町の宮古でパパさんは多感な高校生まで過ごした。
古い時代から関西との交易が続き、方言や訛りも京都風な特徴がある。ひょっとして、宮古という地名も京の都をもじって付けられたのかも知れない。
当然、パパさんのママさん、すなわちお祖母ちゃんは宮古に住んでいる。盛岡時代は時々泊まりに来たが、一週間ぐらい居るとそわそわして帰りたくなるらしい。
娘が「お祖母ちゃんの部屋もあるのに」と言っても住み慣れたところが落ち着くのかもしれない。
マリオも頼りになるパパさんのお祖母ちゃんだから親しくしてやりたいと思うけれども一緒に生活していないので気持ちと裏腹にどうしてもよそよそしくなる。
お祖母ちゃんも動物好きでマリオがお気に入りなのだが、肝心のマリオが打ち解けられない。「マリちゃん、マリちゃん」と声をかけても、知らん振りである。
そのお祖母ちゃんは仙台に引っ越してから孫である長男の結婚式で一度来ただけで、その後は来ていない。
あるとき、パパさんの本家(お父さんの実家)から電話があって墓所を改装するという。
そこにはパパさんが小さい頃亡くなったお父さんのお墓もあって、この際だからと独立した墓を建立することになった。
宮古の菩提寺は華厳院と称して、史実によると東北の藤原三代の時代に源為朝のご落胤である息子の武将が父のため建立したという由緒ある名刹であったが、お祖母ちゃんとも相談して自宅のある盛岡のお寺に墓所を建てた。
墓所選択にはママさんの「宮古に建てるとお祖母ちゃんや私達が亡くなったら誰も(子供達が)お参りに行かなくなるわ」という意見もあって、盛岡に決定した。
パパさんは自分でデザインして洋風のお墓を建てた。
墓の建立供養の時、和尚さんはお経をあげる準備をしながら「こんなお墓は始めてだなー」と言って感心していた。
パパさんは一般的なジャパニーズスタイルの墓碑も悪くはないと考えていたが、寺の境内の墓所を見ているうちに考えが変わったらしい。
同じ形の墓石が並んで個性が感じられない。
墓とはいえ、死者の家である。墓にもデザイン的な主張があって、存在感が欲しいと考えた。そのため標準の和風の墓碑よりお金もかかったらしい。
これから増えるかもしれない孫達が、英語に親しむようにと墓碑の中段に英文を刻んだ。
”BY THE FAMILY
FOR THE FAMILY
OF THE FAMILY“
FOR THE FAMILY
OF THE FAMILY“
ママさんは「(孫達が)ハイカラなオジィちゃんだったと思うだろうな」とつぶやいていた。子供達の反応もまぁまぁで、とくに苦情はなかった。
次男だけが「リンカーン(アメリカの大統領)の真似をしたな」と言っていた。
その日は法事に出席した親戚全員を近くの温泉旅館に連れて行って、墓の建立とお祖父ちゃんの五〇回忌法要の慰労会をした。
その頃、マリオは仙台の家でひとりぼっちで留守番をしていた。
みんなどこへ行ったんだろう?
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