2008年3月10日月曜日

●幼い頃●





ー出会いー
 マリオとの出会いは、国鉄改革の1年前にさかのぼる。
 その直前に、行政改革の嵐が吹き荒れる国鉄本社に勤務していた。
 昭和56年、第二臨時行政調査会(第二臨調)の設置にともない、中曽根内閣成立の翌年58年6月に国鉄再建監理委員会が発足し、本格的かつ現実論として国鉄改革論議が国内を沸かした。
 その状況下で、財政危機に瀕した国鉄改革をめぐり国鉄内部には体制護持派と分割民営派の組織を二分する熾烈な闘争があった。当初、民営派は劣勢であったが、キングメーカー・田中角栄氏の突然の病によって流れが変わった。
 その後、当時の運輸大臣・三塚博氏の著書「国鉄を再建する方法はこれしかない」の出版により、115年続いた巨大組織の国鉄分割民営の方向は決定的になった。
 
そんな中で、改革目前の昭和60年に、本社から古巣の盛岡に転勤になった。
 高校生だった長男の転校問題の難しさもあり、家族を東京に残しての単身赴任だった。地方出身者としては逆単である。当時の国鉄の現場は分割民営化にたいする不安で渦巻いていた。
自宅に一人住まいをしながら、生来の正義感の強さと管理職の職分とあいまって、部下の処遇問題、債務償還用地の区分け作業、新しい旅客会社の地方組織の組み立てや雇用対策等々で東北六県を奔走する日々を過ごし、東京に置いてきた家族を振り返る余裕がない状況だった。
 本社から情報をとり、現場の状況に置き換えて、民営化に備える心構えと準備に奔走する毎日だった。
 当時、家族の状況は妻と高校三年生の長男を筆頭に中学2年生の長女と小学四年生の次男の子供達だった。めつたに帰ることがなかったが、国鉄の分割民営化を1年後に控えた昭和61年の正月に帰京し、久し振りの家族団欒となった。
 頭の中は転勤時と違い、1年後の国鉄改革の際に改革以降の去就が定まらない状態で、家族と離れ離れで職場消滅を迎える不本意な事態を避けたい気持ちもあり、家族を赴任地でありかつ自宅のある盛岡へ連れて行くための説得をする必要にかられていた。
 高校を卒業する長男と小学生の次男はともかくとして、一番の難題は、高校受験を控えた多感な思春期真っ盛りである中学生の長女の転校問題であった。
 
長女との話し合い…。
 「お父さんの話は判ったよ。その代わり、私のお願いを聞いてくれる?」
 「盛岡に行くなら、何でも聞いてやるよ」
 「あのー、犬を飼って欲しいんだけど」
 「よし、わかった。犬でも何でも欲しいものを飼ってやるよ」
 「ラッシー(大型犬コリーの別称)だよ」
 内心、あんな大きな犬を飼ったら始末が悪いなと思いつつ、
 「ああ、わかったよ。ラッシーでも何でも飼ってやるよ」と大見得を切ったものの、これはえらい約束をしたという感がした。
 国鉄解体と自分の去就がはっきりしない状況下で、とにかく家族が一か所にまとまることが最優先だった。盛岡は自宅でもあるし、犬を飼うぐらいは、たいしたことはないと多寡をくくったのが、マリオと出会いの予徴だった。
 国鉄分割民営を一年後に控えた三月に、我が家はめでたく東京から盛岡へ転居し家族全員そろった。転居したとはいえ、民営化の作業は目白押しで家族の団欒どころではなかった。
そんな状態で、東京での娘との約束は薄紙同然だった。
 
或る土曜日の夕方、娘が遠慮勝ちに話しかけてきた。
 「お父さん、ラッシーはいつ飼うの?」
 「何?」
 「ああ、そうだったな」再び(困ったなー)
 「ウン、解ったよ。明日、見にいくか」
 「ウン、いいよ」
 とんでもない週末になった。
 当時、自分の去就もはっきりしない状況で、娘との約束とはいえ大型犬を飼うということは非常な難題であった。一年後に控えた国鉄改革による自分の去就如何によっては、飼育の責任を果たせるかどうか自信がもてなかった。
 ない知恵を絞ったあげく(そうだ。猫ならなんとかなるか)早速、ペット店に電話した。
 「生まれたてのかわいいペルシァの子猫がいますよ」(しめた!)
 翌日の日曜日。
 「犬を見に行くか」(内心は猫)
 「ウン、いいよ」
 父と娘は、大きな気持ちのズレをそれぞれ抱えて、ペット店に向った。
 ペルシァの子猫は四匹いて、真っ白な毛糸の塊に眼と手足がついたような子猫達は生まれて一ケ月位のためペット店の居間で育てられていた。
 昼過ぎの時間、子猫達は毛糸の毬とかお互いにじゃれ合ったり、それは可愛く無邪気そのものだった。
 娘は、コリーそっちのけで四匹のじゃれ合いを見ること小一時間。
 「お父さん、私、猫がいい」
 (しめた!)
「おう、いいよ」
 即日、ペット店の餌持参で、手の平に乗るような小さい小さい一匹の子猫が我が家にやってきた。
 5月のある日曜日の昼下がり、パパさんのペット購入作戦大成功の日だった。



                       マリオ(右から2番目)



ーマリオー
 娘は高校受験を控えた中学3年生での転校で、東京と盛岡のカリキュラムの違いと友達の別れという二つのハンディを背負って悪戦苦闘したことは想像にかたくない。そんな時のなぐさめ相手がマリオだった。
 名付けも、娘である。
マリオは雄であったが(血統書はFEMALE=雌になっていた)、家にきた時は500グラムで手の平に乗る程度だったから、かわいさが先で性別は問題でなかった。
 受験勉強そっちのけで思案した結果、「マリオ」と命名した。
これには、大学浪人の兄も小学生の弟も文句なし。なぜなら、当時ファミリーゲームで同名のソフトが人気を集めていた時期だったからである。
 鼻が低く、眼がクリンと大きく、顔の平べったい、長毛の真っ白な子猫がマリオと命名されて、家庭のアイドルにおさまった。
ちびっ子“マリオ” パパさんはマリオが自由に出入りできるように、家中の戸を改造してマリオ専用の入り口を作った。6LDKと地下室・屋上からなる住宅が、マリオの自由な行動範囲となった。
 ほとんど娘の部屋に入り浸りだったことは紛れもないが、小さなマリオにはこれから住むことになる全空間を踏査する必要があった。
 特に、浪人中の長男、少年野球とファミリーゲームに夢中な次男、ここの雰囲気と居心地を確かめなければならなかった。
 普段は無愛想なくせに、時々見せる親愛な態度と意地悪く攻めてくるじゃれ合いが交互にあり、マリオには理解不能な兄弟だったからだ。

ーしつけー
 親元を離れたマリオにとって、見た事もない家に連れてこられて不安この上なかった。パパさんと娘は連れてきた当事者であるから問題はないにしても、その他の同居人が気懸りである。長男と次男は「ホォー」と言う感じで、まずまずだった。
 問題はママさん。
 「本当に、連れてきたの」「大変よ」と言って無視する振りをした。
 娘とパパさんはペット屋で聞いてきたとおり、急ごしらえのトイレを作り、段ボール箱に毛布を敷いたベッドを用意した。
 娘は当然の事として、自分の部屋にマリオのベットを置くつもりでいた。しかし、ママさんの強硬な反対で実現しなかった。中学3年の娘は、1年後の高校進学のため受験勉強しなければならず、一緒の部屋だと勉強をしなくなると言うのがその理由だった。かくして、マリオのベットルームは吹き抜けの階段横のスペースになった。
 ペット屋で(猫の)大家族主義の中で育てられたマリオには、とてつもなく寂しい環境である。夜になって家族が寝ると、静かな空間に独りきりという感じだった。
 母猫や兄弟と寄り添って、それらの鼓動を聞きながら眠った状態とはほど遠く、思い出して、か弱い声で泣き通した。
 深夜にパパさんが起きてきて「どうしたマリオ、寝なさい」と声をかけた。
 そして当時、流行の自動巻きの腕時計を何回か振って段ボールの隅に置いていった。
 マリオは静かに「チッ、チッ」と音を立てるものに耳をかしげていた。
 それは兄弟猫達の鼓動にも似ていたが、温かさがない音である。
 それでも時計の音に耳を傾けているうちに眠気を催してきて、寂しさを忘れて知らず知らずのうちに眠ってしまった。
 日中は娘の部屋で寝る事にして、夜は階段横のスペースで就寝する生活になった。パパさんの時計が子守歌である。
 一般的に猫はペットとして飼い主と一緒に寝るが、ママさんの厳しいルールにより独り寝の習慣がついた。
 そのせいか、成猫になっても人間と同じ布団の中で寝るのは嫌いになった。真冬の寒い日にやむなくもぐりこむ位で、そんなことは1年に10日もなかった。
 抱かれることもあまり好きではなかった。人間の膝に乗るなど考えたこともない。
 だからと言って家族が嫌いと言うわけではない。幼い頃の躾がきいているからだ。

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